ついつい子どもに伝えたくなる!! 阿蘇の草原ハンドブック このウィンドウを閉じる
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解  説

2.火の山への祈り

(1)火山信仰の歴史
   5〜6世紀ごろ、阿蘇では、阿蘇君(あそのきみ)を中心にした文化が栄えていたといわれています。阿蘇市一の宮町に残る中通(なかどおり)古墳群からは阿蘇氏一族の繁栄を示す装飾物などが発掘されています。阿蘇君(あそのきみ)を中心としたこの共同体は、阿蘇谷(あそだに)の開発に努めましたが、大きな噴火があると、農作物が被害にあってしまうということで、農作物が無事育つように、人々は朝な夕な火山に向かって祈りを捧げていたようです。中国で編まれた歴史書「随書倭国伝」(6世紀)には、「阿蘇山有り、故なくして火起こり石は天に接するほど、人々はおそれおののき祈りをささげ祭り事を行った(原文:有阿蘇山其石無故火起接天者俗以為異因行祷祭)」と記されており、この時すでに阿蘇山への信仰があったことがわかります。
 この火山信仰の中心になったのは、おそらく火口の近くにあった大きな岩ではなかったかと考えられていて、この岩が阿蘇を作った神様、健磐龍命(たけいわたつのみこと)のご神体ともされています。また噴火口にできる池は水が増減することから神秘な力があるということで尊ばれ、「神霊池(しんれいいけ)」として神格化されました。これは大きな磐が立っているという意味の健磐と、池の主である龍をあわせた健磐龍命という神名にもあらわれているといえます。
 また、阿蘇山西厳殿寺には、「阿蘇奇瑞記(きずいき)」という絵図が残っています。これは、国の政治上の大きな出来事のよい前ぶれとしてとらえた神霊池の水の色や火山の煙の色、その出方、勢い等の変化を記録したものです。文永7年(1270)から建武2年(1335年)までの阿蘇の火山活動の様子を絵にし、奇瑞(よいしるし)とされる噴火のようすが描かれたもので、火山活動の様子は、大宰府をへて朝廷に知らされました。
 昔の人たちが火山を神の霊の宿る所として恐れ、敬う心が阿蘇山信仰となり、健磐龍命に対する信仰と結びついていったとことは容易に考えられることなのです。
  (参考:阿蘇の神話と伝説)


(2)阿蘇山信仰の場「古坊中」

 
西巌殿寺の火渡り
無病息災を祈り、信者たちが、火がくすぶる炭の上をはだしで渡る神事
 草千里浜(くさせんりがはま)を通って中岳(なかだけ)へ向かう途中に広々とした平坦面が広がっています。この付近はかつて阿蘇山をご神体とする山岳信仰の場として栄えたところで、古坊中(ふるぼうちゅう)と呼ばれています。
 この地における祈祷行事を司ったのは阿蘇氏でしたが、8世紀ごろからは仏教的儀式も行われるようになり、山にこもる僧侶などもでてきたと考えられています。その頃から山岳仏教も盛んになり、阿蘇山を修行の場に選ぶ行者、僧侶が増えていったようです。
 このようにして阿蘇山の祈祷行事の一端を僧侶たちが担うまでに勢力を拡大していきました。その中心になったのが西巌(さいがん)殿寺(でんじ)です。
 その後、阿蘇氏の保護と規制を受けながら三十七坊が栄えたとされます。天正年間(1580年ごろ)、薩摩の島津軍あるいは大友氏の侵攻で焼き払われたと言われていますが、中岳(なかだけ)の火山活動によって滅びたという説もあり、その滅亡の原因は定かではありません。
 慶長5年(1600年)、加藤清正が今の阿蘇駅付近(阿蘇市黒川)に坊舎と庵室を復興し、一帯を麓坊中(ふもとぼうちゅう)と呼びました。しかしこれも明治初期の廃仏き釈により、三十七坊は廃寺に追い込まれました。
 このような紆余曲折を経て、いまなお「古坊中」という地名はその歴史的背景とともに今日まで受け継がれています。また、山上には、阿蘇山上神社と再建された西巌殿寺山上本堂が隣接して立っています。


(3)火にまつわる行事
   阿蘇の人々は、古くから野焼きなどを行い、火を生活に利用する一方で、前出のように火口の火を畏れ崇めてきました。阿蘇神社の火振り神事(ひふりしんじ)(阿蘇市一の宮町)、西巌殿寺の火渡り(阿蘇市黒川)、霜宮火焚き神事(しもみやひたきしんじ)(阿蘇市役犬原(やくいんばる))など、阿蘇には火にまつわる行事が残っており、その歴史を物語っています。
 
火振り神事(阿蘇市一の宮町)
五穀豊穣を祈る阿蘇神社の田作り祭の神事の一つ。
農業の神様が、姫神をめとる儀式。

霜宮火焚き神事(阿蘇市役犬原)
農作物を霜の害から守るため、稲が穂を出して刈り取るまでの約2ヶ月間、ご神体を火で暖める神事。

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