ついつい子どもに伝えたくなる!! 阿蘇の草原ハンドブック このウィンドウを閉じる
pages : 扉絵 ねらいと手引き 解説1 解説2


解  説

2.放牧する

(1)放牧の様子
1) 放牧の開始 放牧開始の頃
  春になると、阿蘇の草原では、一斉に牛馬の放牧が始まります。初放牧の日は、牛馬の守り神とされる馬頭観音に安全を祈願する習わしがあります。
 放牧開始は、「駄(だ)ゆるし」、放牧終了は「駄取り(だとり)」と言われます。
 阿蘇のあか牛をよく見ると、胴に名前が書かれています。放牧地が共同で利用されているため、所有者と一頭一頭の牛を識別するためにこうしたしるしがつけられているのです。昔は焼印を使ってしるしをつけましたが、現在は白髪染剤を使って書くことが多くなりました。
2) 周年放牧 冬の放牧
   阿蘇では「夏山冬里(なつやまふゆさと)」といって夏に草原に放牧して、冬は屋内(畜舎)で牛を育てるのが伝統的な飼育形態でしたが、草地の改良が進んだことなどで、冬でも放牧が可能になり、10年ほど前から一部の地域では「周年放牧」が行われるようになりました。
 この周年放牧、当初は"真冬の寒い屋外に放すのは牛がかわいそう"という抵抗もあったようですが、牛たちは自然の中でストレスをためずにのびのびと育っています。牛は、寒いと自然に体毛が密集し体温を保つ環境をつくることができるそうです。
  周年放牧は、飼育農家にとっては飼育作業の負担や生産コストの減少にもつながることから、新しい放牧形態として注目を集めています。
3) 放牧中の牛
 
   阿蘇の草原に放牧されている牛のほとんどは、子牛を生ませるための雌牛(繁殖牛)とその子牛です。親牛は、草をおなかいっぱい食べながら、一日当たり3〜5kmほども歩きます。放牧によって足が丈夫になり、運動をするので草をたくさん食べるようになります。
 親牛は、体重(約600kg前後)の10〜12%の量の草を食べて、体重の約5%の糞と3%の尿を排泄するそうです。牛は反芻動物で胃を4つ持っています。第一胃は、容積にしてドラム缶約1本分(200リットル)ほどもあります。牛が草を食べる時間は日の出前後の4時間と、日没前後の4時間の、計8時間ほど。もりもりと音をたてて食べます。2食主義で、短い草を選んで、舌で巻くようにして食べます。短い草は食べやすく、おいしくて栄養もあるからです。
  (参考:自然解説マニュアルU)


コラム 牛道
 牛道とは、牛が草を食べながら放牧地を歩いた跡にできる道のことである。道幅は、ちょうど牛の身体の幅くらいになる。斜面では、等高線状に走っているので、見つけやすい。

(参考:自然解説マニュアルU)

斜面を走る土塁

コラム 阿蘇の「万里の長城」
 阿蘇の草原には、土を積み上げてつくった堤のような境界線(土塁(どるい))が見られる。(米塚の土塁は、くっきりとした線が斜面に浮かび上がっていて遠目にもすぐそれとわかる。)
 この土塁は地元では「とも」と呼ばれる。高さ1.8m、底辺1.8m、上部の幅0.6mという跳び箱状のかなり大きなもので、牛馬が乗り超えることができず、放牧地の囲いの機能を果たしている。阿蘇全体における土塁の総延長は、500kmとも1,000kmとも推定されている。いずれにしても、これだけのものを築くのはかなり大変な作業であったと思われる。阿蘇の「万里の長城」と呼ばれている由縁である。
 では、この「長城」は、いつどんな目的でつくられたのであろうか。
 明治・大正時代まで、放牧場と採草地とは、はっきりと区別されることなく利用されていた。放牧された牛馬の食べ残しを刈っていたので干し草の生産量は少なかった。当時の農家の願いは、放牧地と採草地を柵で区分することだったが、当時は鉄条網の価格が高く利用は難しかった。
 また、利用権の異なる放牧地の境界をめぐって揉め事が起こることも少なくなかった。
 そこで、昭和の初めに、土塁を人力で構築する計画が立てられ、実行された。(「昭和7年草地改良計画書」という資料によると、国・県の指定を受けた牧場が昭和7〜9年にかけて約15kmの土塁を構築している。)
 作業に従事した古老の話によると、作業は稲の収獲が終った冬の農閑期。作業能率アップのため、体力に優れたものが20〜30名で請け負い組をつくり、朝暗いうちに集落の待ち合わせ場所に集合した。ワッパの上下にご飯をつめ、上は昼食、下は3時の「よけまん」用。おかずは漬物が主で、干しイワシの4、5匹もついていれば上等であった。お茶は竹筒。昼食もほどほどにして芝土を切るための「備中鍬(びっちゅうくわ)」をヤスリで研いで切れ味をよくし、能率向上に努めた。作業は分業方式で、最も熟練を要する「芝土切り」は古参の仕事、備中鍬で土をブロックに切り取り積み上げる。間に土を詰める作業は若いものの仕事だった。
 文書によると、1人1日2mの土塁を作る労働負担があり、1m当たりの労賃が40銭だったので能率があがれば日当1円以上になったという(1円は当時の米8kg分、現在の1万円くらいに相当する)。この昭和初期の時代背景は不景気のどん底だったので、この現金収入は農家の経済を潤したという。
この土塁によって、採草地と放牧地が区分され、隣接する牧草地の境界が明確化した。輪換放牧が可能となり、草地利用の近代化が計られるようになった。先人の苦労と努力による阿蘇の歴史的な文化遺産の一つといえる。
(参考:「内牧花原川を守る会」の会報、「草原と人々の営み」)


(2)草原と牛と耕作地の関わり
 阿蘇において、草原利用の基本である放牧と採草は、耕作と密接に結びついてきました。
 牛は、以前は役牛として飼われ、田畑において耕作に欠かせない労働力を提供してきたのです。その牛を育てる場として、草原が利用されてきました。草原は、春から秋にかけての放牧の場となるとともに、冬の間の飼料となる干し草を提供してきたのです。
 また、厩肥は濃厚な肥料として、草は緑肥として、ともに水田耕作や畑作に利用されてきました。火山灰質の高冷地において、これらの肥料は農業を成立させる上で重要な役割を果たしてきたといえます。
(参考:草原利用と人々の営み)

草原と耕作地の関わり


コラム 厩肥(きゅうひ)って?
 厩肥とは、牛や馬の糞からできる肥料のことです。冬のあいだ、牛は畜舎で過ごします。畜舎の床には、敷料と呼ばれる草が敷かれています。この敷料や牛が食べ残した草のかたい部分が牛の糞や尿と混じりあってできるのが厩肥です。厩肥は濃度の高い良質な肥料として、田畑で使われています。
(参考:自然解説マニュアルU)

役牛(昭和36年6月撮影)

出典:水の生まれる里白水村 思い出写真集
草を運ぶ牛


コラム あか牛について
○あか牛のルーツ「ルデー号」
 阿蘇市にある熊本県立阿蘇清峰高等学校(旧県立阿蘇農業高等学校)には、あか牛の改良の祖となったシンメンタール種「ルデー号」の骨格が保存展示されている。
 「ルデー号」は、乳肉兼用種で、原産地はスイス。明治44年、国営の種牛所から貸与されたルデー号は、在来種との間に、体格のすぐれた種雄牛を次々と産出し、やがてそれは、「蘇光」「蘇丸」などの名牛の誕生につながった。
 現在供用されている種雄牛も、血統をたどっていくとそのほとんどがルデー号に至るといわれている。
(参考:一の宮町史/草原と人々の営み、熊本県HP)

ルデー号の骨格
○肥後のあか牛
 「肥後のあか牛」は、品種としては、「褐毛(あかげ)和種」と呼ばれるもの。おだやかな性格で粗食に耐え、寒さに強く放牧に適していることから、農耕用や運搬用の役牛として、昔から阿蘇の農家で飼われてきた。
 明治時代から大正時代にかけて、在来種にスイス産のシンメンタール種という牛を交配して改良を重ねた結果、現在の大型で肉量・肉質ともに優れた肉牛としてのあか牛が誕生した。
 あか牛の肉は、24ヶ月ほどで出荷できるという早熟性(黒牛こと黒毛和種は30ヶ月ほど)や、放牧による適度な運動から無駄な脂肪分を落とした赤身主体の肉質を特徴とする。
 現在、あか牛は全国で37,500頭ほど飼育されているが、その約65%にあたる24,400頭が熊本県で飼育されている(農水省畜産統計平成16年8月1日現在より)。

あか牛
○肉牛と乳牛
 牛には、食べる肉をとるために飼う肉牛と、乳をしぼるために飼う乳牛がいる。あか牛は肉牛、白と黒のまだら模様のホルスタインは乳牛である。
 肉牛は、体に肉をいっぱいつけて、たくさんの肉をとることができる。乳牛は乳房が大きく、乳をたくさん出すことができる。
 そのために、肉牛は四角形の形、乳牛は三角形の形と、体形が少しちがっている。
ホルスタイン あか牛

(参考:ふれあい牧場HP)



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